私の忘れられない思い出は、日本に住んだ時から、初めて海外に住んで、初めてそこで英語と教えて、初めて日本語を勉強したことです。約5年前、私は海外で働くことになった。教えてみたかったから、JET Programmeに申し込んだ。最初、申込みの締切りは11月にいで、そして面接は2月にいたが、最後決定は4月にあった。私の27際の誕生日でに、この決定を知った、本当に一番のプレゼントだた。日本に働くことになった。この経験は新しくてエキサイティングで難かしかったが、一番経験だた。
初めて海外に住んで初めて教えるので、私は本当に心配した。日本語を話さなかったが、三番目の言語が学ばたいかったので、小さい市はいい経験だ。私の新しい家は宮崎県都城市にあったので、都城商業高学校(TOSHO)のAssistant Language Teacher (ALT)になった。
宮崎県へ来た時、きれいな自然に感動したが、本当に田舎だ。幼年時代、私は田舎にいたので、たぶん臨機応変にできる。空港は海に近いが、都城市は盆地にあった。都城市は空港から車で1時半で、田と森は緑豊かな青々になったから、私は感じ入った。7月は本当に暑くて蒸し暑くて、初めて校長先生と教頭先生に会った時、私は汗まみれで、恥ずかしかった。
教頭先生に会った時、教頭先生は私に甲子園に行くように言った。TOSHOが宮崎県大会で勝ったから、全国高校野球選手権大会に大阪へ行った。私の学生と先生は本当に恥ずかしかった、そしてこの経験はそ凄なのアイスブレーカーだ。このゲームでは、TOSHOの気を見た。私はTOSHO人を誇りに思うになった。
いい学校にいたから、私は本当にいつも頑張った。英語の先生は一生懸命働いたから、私も8時半から18時半まで、働いた。一年目は一番難しかったから、初めて教えかった。さらに、後で学校、練習のスピーチコンテストと英会話があるので、時々長い時間働いた。 私はALTだから、先生は私に見て驚いた。「 ALTですか?日本人みたい!」 教えるのはすごく大好きなので、この経験は良かった。私は岩切さやかという英語の先生と友達になった。さやかちゃんはいつも面白くて優しくて助けくれた。時々、さやかちゃんの祖母の家に行った。
1月に、私の父が病気になった時、私は気が重かった。たくさんの友達は遠くの市に住んでいて、ホームシックになった。私の日本語はバラバラなので、日本人の友達がいなかった。この冬は一番難して、寒くて寂しかった。さやかちゃんは私を心配してくれた。
四月、春が来た。この年、元気な一年生に会った。普通、一か二ホームルームは元気ではないが、一年生はいつも意欲的で頑張った。この学生は本当に素晴らしくて、 一年生の卒業式が見たいかったから、まだ4年にいた。この年、新しい校長先生がTOSHOに来た。この谷山先生は前英語の先生を教えたので、谷山さんはメンターみたかった。この経験は珍しかった。私の誕生日は四月で、友達のなほこちゃんとさとこちゃんは私にバースデーケーキをくれて驚いた。私は本当に嬉しかった。
同じ年に、すばらしい生徒に会った、れいなさんだ。れいなさんが一年の時、れいなさんのリズムとイントネーションはナチュラルで、私はれいなさんに「スピーチコンテストを試みてください」と言いました。 れいなさんは一年生の時、宮崎県全商スピーチコンテストで3番になった。後で、さやかちゃんに言った時、このスピーチコンテストで受賞すると、奨学金の対象になると教えてくれた。れいなさんはお母さんだけですので、学校後で、私たちはいつも一生懸命スピーチコンテストの練習か英会話の練習をした。れいなさんが2年生の時、宮崎県全商スピ一チコンテストで一番になったので、東京の全国大会に行った。さやかちゃんと一緒に東京に行って、谷山先生もが出張があって、みんなで一緒に晩ご飯を食べた。スピーチコンテストでは、れいなさんは本当に頑張って、私は誇りに思った。れいなさんが3年生になった時、宮崎県のスピーチコンテストをして、学界学生は競争したので、このスピーチコンテストは高いレベル。れいなさんが6目だったが、職業高校はれいなさん一人だけだ。今、れいなさんは宮崎公立大学にいる。
その後の一年は、簡単になった。 徐々に、私の日本語はじょうずになったので、多くの友人ができた。私は教えることを愛し、日本と友達に会いたい。
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| さやかちゃんと私と谷山先生とれいなさんは東京にいました。 |